一話 畿内の天皇陵を調査

 

 君平は餓えた。流石に今回の旅程ばかりは餓えた。木の根に凭れ掛かりながら、君平は故郷を想った。

 ーそうだ、寛政八年(一七九六)の十一月に宇都宮を発し、本居宣長先生を訪ね、京に着いたのは十二月の年の瀬の迫る頃だった。翌一月には京の御陵を調査し、二月に天橋立に足を延ばした。それからは、大和・河内・和泉・摂津の御陵調査に没頭した日々であった。再び京に戻ったのは六月に入ったころで、調査成果を整理し、多くの支援者と語り合い、呑んだ。そして、京を発したのは六月十六日。今日は、七月十日である。とうとう路銀も尽きた。箱根関を超えれば何とかなるかと思ったが、茲に来て餓えに襲われた。足に力が入らないが、頭だけは鮮明である。しかし、選りにも選って箱根の山中で斯様な仕儀になるとは。商家でもあれば、志を説き、幾ばくかの援助を取り付ける自信はある。しかし、人の居らぬ山中では如何ともし難い。小田原宿は遙か眼下にあるー

 「もし、そこな御仁。如何なされた。」

 |助かった 商家の檀那の様である|

 「手前は、野州宇都宮の蒲生君平と申します。路銀を使い果たし、難渋している次第です。」

 「行李も多く大荷物じゃが、どこからの御帰りじゃ

 「京・大和などを半年巡っての帰路と相成ります。」

 「ほう、半年も。差し支えなければ、何をして御出なすった。」

 「山陵を調べて参りました。山陵とは上古の帝の墳墓、陵で御座居ます。おそれ多くも水戸様二代藩主光圀公は『大日本史』の編纂に着手なされました。この『大日本史』は中国歴代の正史体裁に倣い、本紀と列伝で成るのですが、本来は記録と資料を記した「志」と、事件を列記した「表」が付記されるものです。そこで手前は、水戸彰考館の藤田幽谷君たちと談合し、その補完を成し遂げることと致しました。先ずは、祖先を敬う道から始めるため、帝の御陵を奉齋しなければなりませぬ。『延喜式』の制度が武家の世に代わり、陵を管理するために置かれていた陵戸・守戸も有名無実化し、約五〇〇年が経ちました。その間、陵墓は盗掘や開墾などにより荒廃してしまいました。徳川様の世には何度か修繕し、元禄十年(一六九七)には、幕府独自の調査で山陵とおぼしきところを竹垣で囲み、高札を設置しましたが、それから一〇〇年ほど経ているため荒れ放題です。私は『古事記』『日本書紀』『延喜式』などを頼りに現地に赴き、地名や陵の呼び名などの聞き取りを行い、該当しそうな山陵を探索しました。先年、松下見林先生が慈明寺山の麓に「畦樋」と呼ばれる集落があることから、慈明寺山が大和三山のうちの畝傍山と推定されました。既に室町の世には分からなくなっていたようです。ですから、私も見聞を多にし、見取り図を記し、行李もこんなになっておる始末です。」

 「先程まで、死にそうだったのに山陵を話させると生き返ったようだね。」

 「山陵も帝の代で形が違うので御座居ますよ。古の山陵は、中国皇帝の柩を乗せた形に似ております。車を引く軛の四角を前と見做し、車の屋根の丸い形の柩のある部分を後とし、私はこの形の山陵を前方後円と名付けました。」

 「まったく、何のことやら私には分からンが、大変尊い仕事をなさっていることだけは分かりました。しかし、このご時世、お役人様にお咎めを受け様なことをなさるとは、本当に立派な奇人様でいらっしゃる。申し遅れましたが、手前は茗荷屋宇右衛門と申します。江戸までの路銀を御用立てさせて頂きましょう。これも何かの御縁。返せなんて云いやしやせん。良い御仕事をしておくなさいよ。」

 「これは助かりました。御恩は一生忘れません。あっ、暫しお待ち下さい。」

  忘らめや よしや茗荷の 屋の名とも

        飢えに旅の その情けを

 「やっ 狂歌ですな。お代として頂きましょう。道中、どうぞご無事で」

 「有難う御座いまする。」

 ようやく江戸に着いた君平は、師の山本北山を訪ねた。北山は君平の姿を見て、

 「遊学した成果と無事な姿があったとしても、その風体での帰郷は孝行の道に外れる」

 と言って、財嚢から金を鷲づかみにして君平に与えた。

 君平は宇都宮帰着後、すぐに『山陵志』の草稿を書き上げた。寛政九年(一七九七)十月の頃である。

 

『下野教育』758 平成三十年五月号 所載 

    「前方後円墳の名付け親蒲生君平」篠原祐一 栃木県連合教育会 より